※写真は「美ら海水族館」にて。2009年〜2014年まで勤めた会社を辞め、退職記念に「沖縄一人旅」を敢行したのでした。
多くの人の人生において、会社を設立する機会など一度あるかないだろう。なかなか貴重な体験になると思うので、私が会社を設立するに至った経緯を記録しておきたい。
はじめに
私は岐阜県在住、1981年生まれの男である。物心がついた時から、世の中の「当たり前」「常識」と言われていることに違和感があった。
例えばお金。
「なぜ、僕たちはお金がないと生きていけないということになっているのだろう?」
例えば戦争。
「なぜ、僕たちは友達同士なら仲良くできるのに、殺し合いをしてしまうのだろう?」
このようなことを、子供の頃から考えていた。小学三年生までは平和な日々だったが、転校してからは波乱の連続で、10歳から15歳くらいまでは精神的に辛い日々が続いた。中学の頃は、毎日偏頭痛に悩まされ、しょっちゅう学校を休んでいた。この辺りの話は、機会があればまとめてみようと思う。
ともかく、私はお金の扱いが苦手で、40代を過ぎた今でも、お金に悩まされている。
そんな私が、なぜ会社を設立するようになったのか? すべては岐阜県可児市の「有限会社アイ・ジャパン」との出会いから始まったのであった——。
2014年、有限会社アイ・ジャパンを訪問する
ことの発端は2014年だった。
ある日、父の紹介で「有限会社アイ・ジャパン」という会社を訪問することになった。
アイ・ジャパンは、植物エキスを抽出するメーカーで、天然の消臭除菌剤や杉茶を作っている。「亜臨界抽出法」という、一般的にはまったく知られていない抽出方法を採用し、独自の植物エキスを作っていた。
私はもともとアロマや無添加のものに興味があったので、アイ・ジャパンの仕事には興味津々だった。ただ、学歴はないし、大学も出ていないし、研究者でもないから、そういう仕事に就くことは難しいと思っていた。
アイ・ジャパンの社長に植物エキスを見せてもらったとき、「これは化粧水にもなるし、消臭スプレーにもなるし、飲めるんだよ」と言われ、いたく感動したものだった。森の中では、天然の消臭剤(フィトンチッドと呼ばれる成分)が空気中を漂っているから、動物の死骸があっても臭くならないようだ。そして、植物成分や微生物によって、森の動物たちは守られているということも分かった。
これを聞いて、「自然の力をそのまま有効活用すれば、ドラッグストアに置かれているような商品は、やがて不要になるだろうな」と確信した。世の中を良くすることや、地球環境を良くする仕事がしたかった私は、アイ・ジャパンの仕事に関わることで、世の中をよくできるだろうと思った。
自分の中で、価値観が大きく変わった瞬間だった。
有志で新会社を設立するも、破談
現実は厳しい。私はアイ・ジャパンで働きたいと考えていたが、アイ・ジャパンの社長から「うちにはお金がないから、給料が払えない」と言われていた。
そこで、私を含め七人で新会社(Sとする)を設立する話が持ち上がった。「アイ・ジャパンの技術を後世に残すために、より大きく発展させよう」という理念に賛同し、私は20万円だったか、資本金の一部を出資した。(このタイミングで、初めて実印を作ったのだが、これが2025年の会社設立の際に必要になるのでであった)
七人のうち三人は、ある会社(Aとする)の社長・幹部・会計士だった。この三人が資本金の大半を出資しており、「新会社Sを作るということは、事実上、会社Aの子会社になる」ということだった。
私が会社Aの社長と話した時、「給料は35万円くらい出せるよ」という話を聞いていた。私は新会社で働くことを楽しみにしていたのだが、会社Aの幹部が改めて面談したいと言ってきた。幹部と話をしていると、風貌や話し方、考え方など、体育会系でヤクザっぽいなと思った。ブラックの匂いがぷんぷんしていた。
ブラックを確信したのは、会社Aの幹部は「給料は15万円から」と言ってきたからだ。全然話が違う! アホらしいなと思っていたが、植物に関わる仕事は未経験だし、何事も経験になるか……と思い、渋々承諾した。
その後、新会社Sは設立されたが、ほどなくして「新会社Sは凍結された」という話を聞いた。訳がわからなかった。理由を一言で説明すると、「会社A側とアイ・ジャパン側の意見の不一致」であった。
今となっては、アイ・ジャパン側にも問題があったように思うけれども、兎にも角にも、新会社Sは何も活動をしないまま、凍結状態となった。
そして私は途方に暮れた。
花屋のアルバイトとウェブ制作の仕事で食い繋ぐ
私は突然、就職先がなくなってしまった。退職記念の「沖縄旅行1週間一人旅」から帰ってきて、気分だけは良かったものの、仕事がないから困ってしまった。
そんな折、以前勤めていた会社で、私がホームページ制作を担当していた花屋のスキンヘッド店長から「母の日は人手が必要だから、もし空いているなら、手伝ってもらえませんか?」と言われた。別にすることがないし、母の日の期間だけアルバイトをすることになった。2014年の5月のことである。
母の日シーズンの花屋には、人がひっきりなしにやってくる。最終日、スキンヘッド店長は私の働きぶりを気に入ってくれたようで、「もし行くあてがないなら、しばらく花屋を手伝ってみませんか?」と言ってくれ、しばらく愛知県の花屋さんでアルバイトを続けることにした。
同時期に、以前勤めていた会社の取引先(会社Qとする)の社長から、「うちのスタッフに、ホームページ制作の技術を教えてあげてほしい」と言われた。つまり家庭教師のようなことをしてくれ、ということだった。家庭教師などしたことがなかったが、自分なりにカリキュラムを考えた。
月に1回、ファミレスにパソコンを持ち込み、マンツーマンでホームページに関するあれこれを教えた。わりと良い給料だったので、かなり助けられた。会社Qとは、2024年まで関わりがあった。私は会社Qのウェブ担当者として、10年間も仕事を手伝ってきたのである。2024年に10年目を迎え、ウェブの仕事を辞めたかった私は、ウェブ担当者を離れることにしたのであった。
先が見えない日々
このように、2014年は花屋のアルバイトとウェブ制作の家庭教師の仕事で、なんとか食い繋いでいた。しかし、まったく先が見えなかった。
アイ・ジャパンとは、新会社凍結後も関係が続いた。アイ・ジャパンの社長が私を気にしてくれたようで、月に2万円だけもらって、ホームページ制作の手伝いをしていた。しかし、植物に関して詳しい話を聞くこともなかったので、2014年は「お花とウェブ制作」の一年だったと言えよう。
ちなみに、小澤俊夫先生の「昔ばなし大学」の基礎コースを受講し始めたのもこの年である。定期的に、滋賀県・彦根市に通ったのは良い思い出。会場でたまたま隣に座ったのが福音館書店の編集者の方で、「これから小澤先生に挨拶するけど、一緒に来る?」と言われ、基礎コース受講初日から小澤先生に挨拶ができたのは嬉しかった。
また、スピリチュアル系(地に足がついているほうのスピリチュアルです)のサロンに通い始めたのもこの頃。2014年は、私の人生にとって大きな転換期となったのでした。